高校2年生の頃、私は対人恐怖症、赤面恐怖症、笑顔恐怖症がはじまっていました。
私は高学歴家庭で育ちました。両親の期待を背負いながら塾に通うも、父親の仕事中心の姿を見て「勉強=不幸」と感じ、意義を見出せませんでした。
葛藤と矛盾の中で成績が上がらず、父とコミュニケーションすることをますます避けるようになっていきました。
父親との会話は拷問
私の母親は女子高で家庭科の教師をしていて、平日は弁当を作ってくれていました。しかし、土曜日だけは弁当を作らず、家庭科の部活の指導をするために学校に行く習慣になっていました。
私にとって土曜日は陰鬱でした。なぜならご飯を食べさせる係が父親だったからです。父と私は2人で行きつけの中華屋で昼食を済ますことが習慣になっていました。中学生の頃まではそれが楽しみでした。
しかし、対人恐怖が始まっていた高校生になると嫌で嫌で仕方がない時間になっていました。問題は、ご飯を食べるまでのプロセスにありました。中華屋でご飯を食べるには、お店までの5分余りを一緒に歩かなくてはならないのです。
さらには注文をしてから料理が届くまで、無口で不機嫌で毘沙門天のような形相をした父と直面化しなくてはならないのでした。当日の私にとっては拷問に等しいことでした。
ボソッと呟く
私は当該毘沙門天との会話を避けるべく、ある作戦を思いつきました。それは父親にオーダーをさせる大作戦です。中華屋に行く時間になると、父親が
「いくぞー」
と部屋に入ってきます。私は父親と会話をしたくないために、
「チャーハン・・・先行ってて・・・」
とボソボソと告げました。
(親にオーダーをするとは何様だ)
と感じたのか父親は明らかに不機嫌な表情をしていました。ただ父親も陰鬱な息子との会話をなるべく避けたいのか、それ以上何も言わず先に中華屋に向かいました。
絶妙のタイミング
私はしばし家で待機をします。そして、「チャーハンドンピシャ作戦」を決行します。「チャーハンドンピシャ作戦」とは、父が注文をして、チャーハンがまさに席に置かれた瞬間を狙って家を出ることを意味します。
この家を出る時間のさじ加減は極めて重要です。コンマ1秒でもミスを犯せば、席について、目の前に何もないという、絶望的な状況に陥ることになります。
私は、「チャーハンドンピシャ作戦」を何度も繰り返すと、絶妙のタイミングで店に到着できるようになっていきました。なんとう無駄な能力でしょう。
「チャーハンドンピシャ作戦」を実行すると、店についた瞬間、ホカホカのチャーハンが出てきます。チャーハンを食べている間、
私は目の前にいる父親に何も話しかけないですし、父親も私に何も話しかけません。
ですがチャーハンは絶妙においしかったです。私は、おいしさと、気まずさの絶妙なブレンドを楽しみ(?)つつ、食べ終わると、まだ完食していない父親を尻目に、御馳走さまも言わずにさっさと店を出て行くのでした。
父への暴言
父親を回避する場面はまだまだたくさんありました。高校生の頃、私と父親の出勤時間はほぼ同じでした。しかし、父親と一緒に通勤している姿を、通学中の女子高生に見られたくなかったので、時間をずらすようにしていました。
そんなある日のことです。いつものように、父親と時間をずらして出発をしたのですが、なぜか父が庭でウロウロと停滞していて、私がドアを開けた瞬間、まさに駅に向かおうとしていたのです。
山手線と京浜東北線が絶妙のタイミングで並走するような状態となり、私はパニックに陥りました。
そしてその瞬間、
「お父さんと話すことは何もない!」
とっさに私は叫んでしまいました。そしてそそくさと先に歩いて行ってしまったのです。
父親はか細い声で
「なんだよ・・・」
と寂しそうな声を出していました。
私は、(ひどいことを言ってしまった・・・)と罪悪感に苛まれました。この暴言は今でも後悔しています。いつか父に謝らなくては・・・と考えて30年たってしまいました。
このように私は高校2年の頃になると父親と距離を置くようになり、家庭内でも孤立し、心理的な闇を深めていくことになります。
そんなある日、人生を決定つけるある光景を目にすることになります。その光景を見たことが、将来的な起業のアイデアに結びつくことになるとは、想像すらしていませんでした。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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