高校時代、私は対人恐怖症と赤面恐怖症に苦しみ、父への反発から将来への不安も抱えていました。勉強に身が入らず孤独な日々を送る中、商店街の八百屋の家族の幸せそうな姿が心に焼き付き、自営業への憧れが芽生えました。
しかし、それは恐怖や劣等感から逃れる言い訳でもありました。図書館で経営学の本に没頭し、成功者たちの軌跡に胸を躍らせつつも、受験への覚悟を持てない自分を俯瞰し、嘲笑っていました。覚悟不足のまま、私は迷いながら受験シーズンを迎えたのです。
自分への嘘
経営学の勉強は楽しかったのですが、どこか夢の世界の話を聴いているような感覚がありました。憧れはありつつも、「大学に行かないと人生が終わる」という洗脳は脳を支配していました。
要は
大学受験の勉強はしない
経営学の勉強はする
だけど自営業ができる気がしない
という実に中途半端な状態のまま、ズルズルと大学受験の時期を迎えてしまったのです。
身の程知らずの受験大学
受験する大学は早稲田と明治と日大でした。全て経営学部や商学部でした。理由は特にありません。
東京にある
経営の勉強ができそう
兄貴も受験していた
それぐらいの理由です。受験の日程が決まっても、私は相変わらず勉強しませんでした。しまいには学校もよくサボるようになり、直前期の1月は半分ぐらい学校を休んでいました。
サボっている時間は図書館に行って、赤本などパラパラ眺めるのですがどうしても解こうと言う気がおきません。すぐに経営学の本を読んでは現実逃避をしていました。おそらく1日30分も勉強していなかったと思います。
明治でのトラウマ
結局、偏差値は50前後のまま受験することになってしまいました。最初は明治大学の受験でした。
明治大学はお茶の水にあるリバティータワーでした。実際に試験を受けると、皆目見当もつかないような問題でした。古典は明らかに0点でした。英語も数学もさっぱりできませんでした。ここまでできないのか…と愕然としました。
万が一に備えて、合格発表を見ましたが、案の定落ちていました。受かるわけがないのでショックはありませんでした。
早稲田敵前逃亡
次は早稲田でした。ここで私は大チョンボをやらかしてしまいます。それは受験をバックレたのです。
明治大学で、まったく問題が解けなかったのです。より難関の早稲田の問題が解けるわけがありません。もし早稲田で問題を受けたら、何時間も、自分の勉強のできなさと直面させられることになります。
そのため私は、早稲田大学を受験するふりをして、敵前逃亡をしてしまったのです。この事実は今でも両親は知りません。
通いたくない大学‐日大
最後は日大を受けました。日大は早稲田、明治に比べて、偏差値が劣ります。当時は滑り止めで受ける風習があり、私もその風習に乗ることにしました。
日大の経済学部・経営学科は大学というより「ビル」という感じでした。早稲田や明治に比べてキャンパス感がなく、受験をしながら、こんなところに通いたくないな~と感じていました(日大の関係者さんすいません。)
試験は、マークシート式だったと記憶しています。試験は明治に比べると回答はできました。ですが明治の受験で、厳しさを理解していましたし、まったく勉強をしなかったので、合格できる気はしていませんでした。
後日、電話で合格通知を聞くと
オメデトウゴザイマス
ゴウカクデス
という音声案内が流れました。合格したものの、私は全く嬉しくありませんでした。
モラトリアムと日大行き
日大の合格の知らせを聞いた私は、悩み始めました。また私の家族は、早稲田、日本女子大、東大生、みんな高学歴でした。その平均値からすると日大は落ちこぼれでした。私の中でこの時点では3つの選択肢がありました。
1.起業する
2浪人生になる
3.日大に行く
アイデンティティが拡散していた私は、高校卒業して独立できるほどの気概もなければ、浪人して1年を勉強に費やすモチベーションもありませんでした。
そこで最も中途半端な道として、日大の経済学部・経営学科に進むことにしたのです。
対人恐怖と悪化する症状
何はともあれ日大に入学した私は春から大学生になるのでした。男子校6年間の牢獄から脱出することになったのです。しかし、私には対人恐怖という致命的な病があったのです。大学入学が迫ってくると、ストレスが溜まっていきました。
中途半端に日大に入っていいのだろうか
大学生活に馴染めるだろうか
ダサい男とみられないだろうか
孤独にならないだろうか
こんなことを悶々と考えていました。そうして3月に入ると、ある症状が深刻度を増していきました。それは長年患っている「爪噛み癖」でした。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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