対人恐怖症に8年苦しみ、引きこもりになった私は、心理療法の力を借りて、無職からフリーターになることができました。
仕事内容は、保険の電話営業で、合法ではあるものの、その実、高齢者を半ばだますような、手法でした。電話を掛けるたびに、売りたくもない保険商品を売る羽目になり、何か大切なものを失う感覚がありました。
一方で、この電話営業という仕事は、視線恐怖症があった私にとっては、どうにかこなせる貴重な仕事でもありました。
電話営業なら対面で話さなくても済みます。内容については、釈然としない感覚はあったものの、それなりにこなすことがきました。
このように、仕事について慣れてきたものの、仕事以外の時間で私は、深刻な問題に直面することになります。
休憩時間と試練の時間
職場では1時間の昼食休憩がありました電話営業が終わり、休憩時間になると、ストレスを解消すべく、マダムたちはいっせいに休憩室にあつまっておしゃべりをはじめます。
休憩室は、新宿とは思えないぐらい、十分すぎるほど広い空間で、かつビルの40回にあり、富士山が見え、素晴らしい眺望でした。
ただのフリーターなのに、なんだか自分がとんでもなく、すごい仕事をしているかのような錯覚をしてしまいます。
ただ、この休憩室は、対人恐怖症の私にとって、恐怖の間取りになっていました。
というのもこの休憩室は、大きなテーブルが4つほどある形になっていて、個人で休む雰囲気はなく、「さあおしゃべりしてください」と言わんばかりの、配置になっていたのです。
私も半ば流れの中で、半強制的にこの輪に加わることになります。孤独で人との会話に飢えていたので、会話ができること自体は、嬉しかったのですが、その裏腹に、毎回困った事態になっていました。
質問に塩対応
マダムたちの、おしゃべりがはじまると、私はどうしていいかわからず、暗い顔をして、ぼうっとしていました。
マダムたちは、そんな私を見て、(さすがにこの陰キャにも話をふってあげないとかわいそうだ)と慈悲深く、質問をしてくれました。
川島君は休日なにしているの?
川島君はどこに住んでいるの?
川島君は好きな食べものは何?
このように一般的には、あたりさわりのない、ジャブのような質問をしてくれました。
しかし、当時の私には会計士受験に失敗し、引きこもっていた過去がバレたら、馬鹿にされ、もっと自信を失うことになる、という感覚が強くありました。
そのため、質問されることに極度の警戒心がありました。
そのため
と、とくに・・何もしていないです・・・
わ、わりと、とおいです・・・
と、とくに、ないです・・・
と相手の慈悲深さにたいして、感謝の念もなく、恩をあだで返すような態度で、まったく会話の輪に加わろうとしませんでした。
このような態度を序盤から繰り返していたため、「川島君のプライベートは聞いてはいけないキャラ」を確立することに成功しました。
1週間もすれば、誰一人私に質問をすることがなくなり、私は大都会の、高層ビルの40回で、自らまいた種で孤立する羽目になったのです。
会話のやり方を知りたい
このように、当初は、自己防衛的に、自己開示をせず、会話を拒否していましたが、このままではなんのために、人と接する職場をわざわざ選んだのかわかりません。
このままではとてもではないですが、対人恐怖が治ることはなく、本当の意味での社会復帰はかなわないと感じ始めました。
そして、1か月もたたないうちに、自分の殻に閉じこもっていてはいけない!会話ができるようにならないと!と自覚していきました。
しかしながら、「会話」はどうすればできるようになるかわかりません。国語、算数、理科、社会、は教科書があるのはわかります。「会話」の教科書などあるのでしょうか。
私は会話力の向上を求めて、本屋通いをはじめることになります。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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