高校1年生の頃、私は対人恐怖症、赤面恐怖症、笑顔恐怖症がはじまっていました。
奇跡的にデートをする女子と巡り合えるも、失恋をしてしまい、自分を守るために、感情を抑える癖が加速しました。
高校2年の後半には、表情が消え、攻撃的な雰囲気をまとい、冷たい存在になっていました。
高学歴家庭
高校2年生になると、将来について考える時間が増えていきました。
私が通っていた男子校は偏差値50前後の平均的な高校でした。いわゆるFランクの大学がエスカレータ式についていて、内部進学率は6割を超えていましました。
一方で私は他の大学を受験するだろうという予感を持っていました。なぜなら私の家庭は高学歴だったからです。
兄は東大生、父親は早稲田大学、母親は日本女子大でした。私は大学=偏差値が高い大学という刷り込まれていました。私は将来Fランの大学に行ってはいけないと感じていました。
私は受験をする旨を伝えると、両親は喜びました。
不毛な塾通い
高校2年生の夏ごろになると、三鷹にある塾に通うことになりました。塾に行くと、女子がたくさんいました。
嬉しい気持ちがある一方で、整った顔を崩してはならないと、無表情になっていました。すれ違うたびに、不細工にみられていないだろうか・・・と気が気ではありませんでした。
当然、自分から話しかけるなど一切できなかったのですが、少なくとも女子がいる環境に行けるというのは1つのモチベーションになっていました。
しかし、肝心の勉強には、全く身が入りませんでした。勉強する意味を見出せなかったのです。
例えば、ベクトルの授業を受けていても、なぜベクトルを学ぶのか?そういった根本的なことを先生は教えてくれません。なぜ勉強するのか?その答えが曖昧なのに、勉強をするのはすごくストレスでした。
父と大学受験を重ねる
勉強への確信を持てなかった理由として父親の影響がありました。父親は誰もが知る大手の会社に勤め、昇進も同期の中でも出世頭でした。いわゆる昭和の典型的なモーレツサラリーマンでした。
朝早く会社に出社
帰宅するのは日付が変わる頃
仕事、仕事、仕事・・・
有休もほとんど取りません・・・
父親は仕事で疲れているのか家庭の中ではほとんど話をしませんでした。たまに食事をしても自分から話すことはほとんどありませんでした。父親が口を開くときのほとんどが叱る時だけです。
そんな父親を見て私は勉強と幸福な人生を結びつけることができませんでした。
勉強する
良い大学に入る
大手の会社に入る
父親のようになる
苦しい生活
というイメージしか持つことができず、勉強することに意義を見出せなかったのです。
塾に通ってから半年ぐらいたったでしょうか。宿題が出されても勉強をすることはなく、成績は全く上がりませんでした。授業には出ていましたが、ただの案山子になっていました。
受験はしなくてはならない・・・が勉強をすると父のような人生になってしまう・・・そんな想いがぐるぐると頭の中を回っていました。
一方で私の状況は矛盾していました。父のようになりたくない・・・と考える一方で、お金を出してもらって塾に通っている。それなのに成績が全く上がらない。父に合わせる顔がなく、徹底的に距離を取るようになっていきました。
そして私は父親を傷つける決定的な一言を言ってしまうのです。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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