高校1年の頃から対人恐怖症がはじまり、特に赤面恐怖症がひどく、悪化の一途を辿っていました。
高校2年生になると、父親への反抗期もはじまりました。父は子供との接し方がへたくそでした。食事中話すことはなく、冷たい態度をとります。父と温かい会話がないために、人生のロールモデルにすることができませんでした。
そのため、父と同じ道を歩むことに疑問を持っていました。勉強して偏差値の高い大学に入って、有名な会社に入っても、夜遅くまで働いて、子供と暖かい関係になれない。
受験の時期になり、塾に通い始めましたが、全くと言っていいほど勉強をしませんでした。塾に行っても前の席の女の子のうなじを眺めているだけです。
当然成績は上がるはずもなく、パッとしない成績となっていました。河合塾の全国模試とかでも偏差値50ぐらいを漂流していたことを覚えています。
そんなある日のことです。人生を変える衝撃的な出来事に遭遇するのです。
八百屋のオヤジ
当時私は小平市に住んでいました。駅前の商店街には、八百屋、クリーニング屋、パン屋など、個人商店のお店がたくさんありました。
学校帰りに何気なく八百屋の前を通ると、ガラガラ声の店主がいつものように声を張り上げています。
そんなオヤジには、6歳ぐらいの娘がいました。娘は店内でウロウロしながら遊んでいます。そしてしょっちゅうオヤジにちょっかいを出します。オヤジは文句を言いながらも嬉しそうに抱っこするのです。お世辞にもその八百屋はもうかっているという感じではありませんでした。
しかし、そして近所の主婦と冗談を言い合い、娘が足にだきついているオヤジの表情はとてもにこやかでした。目の前にいるちょっと小汚いオヤジが、私にとってとはても現実的で、血肉化された生々しい生き方をしていると感じたのです。
毎日深夜に帰ってきて、陰鬱な顔をしている父親より、家族を大事にしながら顔と顔を合わせて生きているオヤジが幸せに見えたのです。私はこの時から、「自分で仕事をする」「自営業をする」ということに憧れを持つようになりました。
逃げるための口実
ただこれは言い訳の面もありました。というのも自営業になるというのは、勉強をしない口実を自分に与えたかったからとも言えるのです。このままでは、高学歴の両親、父と比べ、劣った存在になることは明らかでした。同じ土俵に居たくなかったのです。
私は、勉学とは別の、なにかお手軽な言い訳を探していたのだと思います。
都合のいい、言い訳を探していたときに、たまたま八百屋のオヤジを見つけ、「自営業という生き方」をアイデンティティに取り込むことで、「僕は君たちとは違う道なんだから、そもそも比べられない」という側面を打ち出し、自分を守ろうとした面もあったのです。
このような屈折した心を持つと、私は受験勉強を実質的にやめてしまいました。そして、経営学の勉強を始めることになるのです。
*********
・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
・対人恐怖のご相談はこちら
・社交不安症チャンネルはこちら
*********