対人恐怖症だった私は、 大学2年の頃から会計士試験の勉強をはじめました。1日10時間、勉強できるようになり、最初は成績が良かったものの、大学3年の後半あたりから、急降下していきました。直前模試ではE判定を連発するようになっていました。そして無情にも、会計士試験の日がやってきてしまったのです。
戦いにならない
試験会場は早稲田大学でした。教室につき試験官が用紙を配ります。回答方式はマークシートです。私は「もしかしたらワンちゃん解けるかもしれない」と一縷の望みをかけて試験問題を解き始めました。
しかし、現実は非常です。問題を解き始めると、解く問題、解く問題、模試で見たことがないようなばかりでした。専門学校ではオーソドックスな問題が中心ですが、模試では癖のある問題ばかりです。
どこから計算をすればいいのか全く分からず、脂汗がどんどん出てきました。試験は50問ありました。問題を進めるごとに「次こそは簡単な問題であれ」と祈るように進めますが、ことごとく跳ね返されました。
相手にパンチを充てようと、一生懸命腕を振っても、毎回カウンターを食らい続けるような感覚でした。そして精神的に完全にダウンしたころ、終了のゴングが鳴り、試験は終わりました。試験に落ちたことは明らかでした。
放心状態
私は、ボコボコにされたボクサーが会場をフラフラになりながら後をするように、教室を後にしました。しばらく、歩くことができず、大学内にあった芝生にへたり込みました。
ぼうっと空を眺めると、そらはとても青く、とても透き通っていました。こんなにも天気が良いのに、自分の人生は取り返しのつかないところにある気がしていました。
空を眺めながら、これまでの2年間を振り返りました。私は、私なりに、努力できる人間になっていました。30分とて机に向かうことができなかったのに、1日10時間勉強をすることができるようになりました。ですが、その結果は無残なものです。
過食で体重が20キロ増えた
爪噛みが止まらず、ボロボロになった
挨拶すらまともにできない
人の目線が怖い
地面を見て歩く癖がついた
成人式に行かなかった
就職活動をしなかった
大学生活の全てを捧げた結果がこれか。社会的に見れば、私はただ惰眠を貪った底辺の大学生でした。
空はとても綺麗でした。これは夢なのではないかと錯覚すらしました。あまりにもどうしようもない現実に自分が自分でないような感覚になっていました。
家族との会話を避ける
鉄球をつけられた囚人のような足取りで家に帰ると、母親が声をかけてきました。母親は私の表情を見ると、どこか悟ったような声をかけてきました。
「おかえりなさい・・・疲れたでしょう・・・」
私は、母に自分の現状を見せたくありませんでした。
「難しかった・・・」
とボソッとつぶやき、3階の自室にそそくさと逃げ込みました。
専門学校の学費を払ってもらったのに試験に落ちてしまった。高校生の頃は塾代を無駄にし、今回は専門学校代も無駄にしてしまいました。就職活動をしなかったので、卒業後の進路さえ決まっていません。私には楽しく話す資格はないと自分を責めました。
特にお金を出してくれた父親に合わせる顔がありませんでした。私は父親との会話を完全に拒絶するようになり、家庭内ですら逃げ回るようになっていました。
これからどうするのか
会計士試験に落ちてから数日がたちました。そして、私には「これからどうするのか」という選択をしなくてはなりませんでした。私には3つの道がありました。
具体的には
①試験勉強を続ける
②就職活動をする
③起業する
この3つの道です。①試験勉強を続けるは、もう1年あの地獄を味わうことになります。②就職活動をするは、対人恐怖を抱えた状態で、醜態をさらしながら活動しなくてはなりません。そして私には、③起業するという選択肢もありました。私はいまだに起業したいという逃げ道を自分の中で確保していました。
どの選択枝も、地獄への道でしかなく、1つとして桃源郷のような未来を予測することができませんでした。そして、私は3つの中からもっとも、ましと思われる地獄を選び、精神をますます焼かれることになるのです。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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