劣等感の塊で対人恐怖症になった私は、一発逆転をすべく大学2年の頃から会計士受験生になりました。2年間の猛勉強の末、試験を受けましたが、爪痕を一切残すことなく圧倒的敗北を期しました。現実逃避をすべく、雀荘に逃げ込むも、声が出なくなり、地獄の底にも居場所がなくなっていきました。
ひきこもり生活のはじまり
大学4年の秋ごろに、なると、対人恐怖の症状は重症化し、人とすれ違うだけでもびくびくする状態になっていました。このような状態なので、雀荘に行く気力もなくなり、外出する機会がなくなっていきました。
私は、徐々に引きこもるようになり、3階の屋根裏部屋で、1日中過ごすようになっていました。この部屋は2階と完全に孤立していて、家族との会話もほぼ必要ありません。ひきこもるには格好の環境でした。
引きこもりには、引きこもれる環境も実は影響しています。例えば、収入が全くない状態でかつ、精神疾患になった場合は、一般的には生活保護の対象となり、グループホームというところで暮らすことになります。グループホームはゆるやかな集団生活のような形になるので、半強制的にコミュニケーションが生まれ、引きこもりにはなりにくいのです。
一方で私は親にある程度の財力があったので「誰とも接しなくて済む環境」が偶然そろってしまっていました。そのため、ある意味でひきこもれる、ぬくぬくとした環境に身を置くことで、対人恐怖の症状を底なしに悪化させていくのです。
対人恐怖と親戚
そんなある日、2階から3階に上がってくる足音がしました。めったにないことなので、警戒心が急激に湧いてきました。その足音は部屋の前で止まり、10秒ほど間があきました。すると、意を決したように「トントントン」とノックする音が聞こえました。
私は
「なに?」
と冷たく答えました。
その答えに対して
「来週、鳥取のおばちゃん達が、家に遊びにくるわよ」
という返答がありました。声の主は母親でした。
私は、ブクブクと太り、就職活動もしておらず、吃音も悪化していました。親戚が来たところで、変わり果てた私にびっくりするに違いがありませんでした。
私は
「絶対に会わない!」
と金切り声を出しました。普段は洞穴の奥から話すような声量なのに、この時ばかりは右翼の街宣車ぐらい大声になっていました。
母親は
「会わないたって・・・」
と呆気に取られていました。
私はドア越しに
「絶対に会わない!」
「僕は出かけていると伝えてくれ!」
と、強い口調で母親に念を押したのです。こんなにみすぼらしく、どうしようもない状況で親戚とどんな顔をして会えばいいのか!私は恐怖で震えあがりました。
親戚に怯える
ついに・・・親戚が来る日がきました。
1階の玄関が開く音がしました。母親が高い声で迎えているのが分かります。懐かしい叔母の声が小さく聞こえてきました。私は気配を悟られたくないために、なるべく、足音を立てず、息を潜めていました。母親が、私との約束を破り、3階にいることを親戚に告げるのではないかと恐怖しました。
もしドアがノックされたらどうしよう…気が気ではありませんでした。
結果的に親戚は4時間ほど滞在すると、帰ったようでした。1階が静寂になると私は心からほっとしました。
一方で、親戚が返ってから、罪悪感が襲ってきました。母親はきっとうまくごまかしてくれたのです。私が会計士に受かってさえいれば、もっと楽しくできたはずなのに、気を使わせてしまったことに自己嫌悪しました。
重症と奇行
ひきこもり生活が1か月ほど続くと、私はますます自分の殻に閉じこもって行きました。唯一会話があった母親に対しても、遠慮がちとなり、ついに話さなくなって行きました。会話と言う会話が一切なくなり、社会から完全に孤立し、心の病を重症化させていくことになります。そして社会と断絶された3階の孤島で奇行を繰り返すようになるのです。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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