対人恐怖症が重症化し、引きこもりになった私は、哲学の世界に没頭していました。私はソクラテスにこう諭されました。
君が引きこもりであったとして、それを責める誰かがいたとしても、確実な根拠があって責めているわけではない。君を責めている誰かも、君そのものも、わかっているようでわかっていない。だから根拠のないことで、そうメソメソしなくても大丈夫だ。
私はソクラテスのおかげで、自分を否定する根拠を失い、自分をディスる時間が減っていきました。哲学というものはこんなにも根本的なことを扱う学問なのか!と感動しました。私は、ますます哲学にのめり込んでいきました。
私は父親の財布から小銭を盗んでは、古本屋の哲学コーナーに通うようになりました。ソクラテスが「正しいことをしなさい」ということを言っていたので、古本屋に行って、値段を確認してから、その値段分だけ、盗むという正しい行動をとれるようになってました。
方法的懐疑
次にハマったのがデカルトの本でした。デカルトの「方法的懐疑」という考えを大切にしていました。方法的懐疑とは、「すべての物事をまずは疑ってみる」「確実なものだけを探す」という一見ネガティブな手法です。
しかし、このネガティブな手法は前向きな要素を発見することにもつながります。例えば、引きこもりになると「僕は社会の役に立っていない」という感覚にとらわれますが、「本当に誰からも必要とされていないのだろうか」と問いかけてみるのです。すると意外と自分がいることで役に立っていることがわかります。
・母親は私をいつも心配していました
・疎遠ではあるが彼女からたまにメールはもらっている
・私が麻雀をすることで助かっていたオーナーもいました
・つぶれそうな本屋の売上に貢献していました
・日々の食事代が製造者の役に立っている
また、「今のまま何も変わらないのではないか」という不安も、疑ってみる価値があります。徹底的に向き合うと
・他の人が立ち直った事例がある山ほどある
・全身不随になった人が成功したこともある
・中卒でも成功している人はいる
・容姿の醜さは努力でかなり改善できる
・北朝鮮の牢獄にいるわけではない
このような新しい視点も増えていきました。しずつ、「自分の考えすべてが真実とは限らない」という視点が生まれたとき、人はほんの少し前を向けるようになり、自分を縛っていた思い込みから少しずつ自由になっていきました。
我思う、ゆえに我あり
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉も残しています。我思うゆえに我ありとは、
この世のことを疑うとほとんどに確実なものはないが、ただ1つ何かに疑問を持ったり考えたりする自分は疑いなくいる
という考えです。確かに、悩んだり考えたりしている自分は確かに存在しているのです。この感覚はなぜか心に響きました。私は、ニートになり、人と関わることが無くなっていました。社会的に存在しないような状態になっていました。自分の存在がおぼろげになっていて、自分と言うものがフワフワしていて、わからなくなっていました。
しかし、私は確かに疑い、考え、悩んでいたしました。確実に疑いなく存在しているのです。私は疑いなく存在している。この感覚は自分の芯のような感覚で、不思議な自信をつけさせてくれる言葉でした。
哲学は面白い。
考えもつかなかったことを発見できる。
私はますますはまっていきました。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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