対人恐怖症があった私は、会計士受験の失敗、学歴コンプレックス、コミュ障、醜形恐怖、無職、ニート、引きこもりになり、自殺願望を持つようになりました。死を意識すると、必然的に「人はなぜ生きるのか?」という疑問を強くもちました。
そしてその答えを見つけるために哲学書を読み漁るようになりました。その結論次第では死を選ぶことにしました。ソクラテス、ニーチェ、般若心境・・・哲学書を読めば読むほど、世の中の前提となる価値観や知識には絶対的な根拠がないということがわかってきました。
これまで私は自分を散々馬鹿にしてきました。
「会計士試験に落ちた自分はクズだ」
「見た目は化け物のようだ」
「会話ができない社会不適合者だ」
このような自己否定をすると、ソクラテス、ニーチェ、ブッタが
「おまえ、その自己否定、絶対的な根拠があるの?
よく考えてみな・・・どこにも確実な証拠はなくね?」
こんな風に突っ込みを入れてきます。そのため、私は私を絶対的に否定できなくなってきました。自分を自分で否定できなくなると、自己否定感が底をうったような感覚になっていきました。
人生に意味はなかった
しかし、私にはまだ最後の命題が残っていました。人はなぜ生きるのか?生きることに意味はあるのか?という命題に決着がつかないと前に進めない感覚がありました。この答えを教えてくれたのはサルトルでした。
サルトルは、実存主義の哲学者です。実存主義では、「目的」と「存在」をもとに議論をすすめていきます。まず「物」は「目的が先にある」と考えていきます。例えば、エアコンは冷やす、温めるという目的があります。このように物には「目的」がありその目的に応じた「存在」があるのです。
これに対して「人間」はどうでしょうか?実存主義では「人間」には所与の「目的」はないと考えます。すなわち、人間は「存在」が先で、「目的」はあとからついていくのです。
サルトルの考えを要約すると
・人間はとりあえず生まれてくる
・その人生にもともと意味などない
・だから自分なりに創っていくしかない
となります。これは「自由の刑」と言います。
サルトルのおかげで私は結論を出すことができました。自殺を考え、なぜ生きているのかわからなくなり、もし生きる意味がなかったら、生きることは無駄です。死んでも良いと考えていました。そして出た結論が人生に意味はないということでした。
そうか・・・人生には意味がなかったのか・・・
その結論を核心として持てたとき、私はなぜか死のうと思わなくなっていました。
自由の刑と人生の白紙化
自由というのは実は大変です。自分で考えるというのは途方も無いエネルギーを使うからです。しかし、サルトルは自由は刑でもあり、喜びでもあると考えました。なぜなら、生きることにがよくわからないということは、自分なりにアレンジをして生きていければよいからです。
学歴が高い大学に入るべき 新卒で安定した会社に入るべき
年収を上げるべき 綺麗な奥さんをもらうべき
ひきこもる事は恥ずかしい 親のすねをかじるのは恥ずかしい
資格をあきらめるのは負け組 社交性がないのは恥ずかしい
私は哲学を勉強する前は、これらの価値観で頭がいっぱいになっていました。そして、このように生きることが意味のある人生だと感じていました。そして自分自身を拘束し、死んだ方がよいと思うまで自責の念に駆られていました。
しかし、哲学のお陰で目が覚め、人生はもっと自由であり、自分なりにアレンジして生きていけばよいと思えるようになりました。私はこれらの価値観を全て白紙に戻すことにしました。すると肩の力がすっと軽くなったような感覚がありました。
そして自由に人生の意味を考えることにしました。これからは誰かが考えた価値観ではなく、自分の頭で考えた人生の意味を創ることにしました。それまで私は、本気でどう生きるか?ということを考えたことがありませんでした。それは新鮮な体験でもありました。
そうして自分と向き合った結果、私はある結論を出すことになります。そしてその結論が将来の自分の仕事につながるとは、この時はまだ知る由もありませんでした。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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