15歳の頃から対人恐怖症が始まり、引きこもりとなった私は、心理療法の力を借りて、少しずつ心を回復させていきました。
そして、社会復帰を目指し、アルバイトの面接に臨みましたが、不採用が続きました。一度不採用になると、ショックから1,2週間、再び引きこもっていました。
もう社会に居場所はないのかもしれない・・・と悲観に暮れ、求人誌のフロムAを見るのが苦痛になっていました。
それでも、前に進まなければ現状は何もかわりません。私は、恐怖の書をめくるかのようにフロムAを開き、再びアルバイト先を探しました。
次に目に留まったのは「携帯電話の売り子の派遣」でした。
時給は1,200円とまあまあ良さそうでした。対人恐怖を克服するために、人と接する仕事が最低限の課題だったので、面接の予約をしました。するとこれまで通り、あっさりと面接が決まりました。
ムチムチが苦しい
面接会場は曙橋でした。曙橋は、これまで面接してきた新宿や池袋に比べて、比較的小さな町で、いくばくかほっとしました。
会場につくと、そこは陰鬱さはなく、かといって仰々しさもない、きわめて平凡な5階建てのビルでした。
面接会場は3階でした。受付に到着すると「来場者の方は、ご連絡ください」と書かれた内線用の電話機がおかれていました。
電話を取り、こ、こんにちは。め、面接に来た川島です。と話すと、「は~い。担当の川村です。少々お待ちください」と女性が返答してくれました。
平凡なビルなのだから、期待値的には、地味な眼鏡の事務員ぐらいの女性を予想していました。
30秒程度経つと、ドアが開きました。すると、そこには峰不二子ばりにムチムチした30歳前後の女性が登場したのです。
当時の私にとって、ムチムチした女性は天敵でした。というのも、興奮を通り越して、緊張しすぎて苦しくなってしまうからです。
私はその女性に完全に反応してしまい、顔が真っ赤になり、身体が硬直し、声が出なくなってしまいました。
同性や目上の人については、森田療法や行動療法での練習のおかげで、少々は改善していたのですが、ムチムチした女性に対しては無力でした。
目を合わせたほうが良いですよ
面接官の女性は、ハイヒールを履いていて優雅な歩き方で、私を面接会場に誘導しました。着席をすると、私と女性は正面で相対しました。
私にとって女性と真正面で相対すことは、最も嫌うシチュエーションでした。なぜなら、ダメ男っぷりを全力で査定されるような気分になってしまうからです。
間の悪いことにその女性はなぜか胸の谷間を強調した服を着ていました。私は目を合わせることができないため、視線を落とすのですが、視線を落とすとその先には谷間があるのです。
谷間については、恐怖症はなく、むしろうれしかったのですが、凝視してしまうと迷惑禁止条例で捕まってしまいます。
囚人のジレンマのような状態になり、一切目線を上げられないという事態に陥ってしまいました。
面接官の女性は、あまりにも私が、目線をあげないために、川島さん、ちゃんと目を合わせたほうがいいですよ。と指摘をしてきました。
しかし、私はうつむくばかりで、顔を真っ赤にしながら、ただただ狼狽するだけでした。
面接は15分程度で終了しました。女性は合格の際は明日の昼までに電話致しますと宣言しました。
私は再び、帰路につき、自宅の3階のコンフォートゾーンに到着すると、ふとんにダイブをして、ため息をつきました。
不採用への慣れ
面接の結果はもちろん不採用でした。はいはい・・・そうですよね・・・私は、自虐的につぶやきました。無職でコミュニケーション能力がないと、本当に社会でやっていくことは厳しいと感じました。
不採用の連絡をもらう度に、社会不適合者の烙印を押されるような感覚になりました。
しかし、このとき、ハタとある事実に気が付きました。というのも、ショックを受けつつも、少しだけ「落ちること」に慣れてた感覚があったのです。
最初は、落選したら2週間程度、立ち直れなかったのに、落ち込む時間が日に日に短縮されている事実に気が付いたのです。私は行動療法的に考えることにしました。
いきなり合格を目指さなくていいのだ。まずは落ちることから始めて、ステップアップしていこう。面接を受けるのはタダだし、コミュニケーションのトレーニングを無料で受けているのだ。
そう考えると、少し気持ちが楽になりました。そうして面接を繰り返すと、やっとこさアルバイトで採用してくれる会社が現れたのです。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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