対人恐怖症が重症化し、引きこもりになった私は、心理療法を実践し、いくばくか心が整理されていきました。
そして、コンビニや大型書店に行って、店員さんと軽くやりとりするぐらいまでは回復することができました。とは言え、毎日、1時間程度外出するのが精いっぱいでした。
そんなある日の午後、自宅の呼び鈴がなりました。
ひきこもってから、私はただの一度も呼び鈴に出たことはありませんでした。その日も当然のように無視をしました。
しかし、その日は異常でした。何かがおかしいのです。無視を決め込んでいたにも関わらず、一向に引き下がる気配がありません。
宗教の勧誘?
何かの事件?
その後も数分待ったのですが、ピンポンは終わりません。
恐ろしくなってきた私は、気配を悟られないように、3階から1階へ忍び足で一階に降りました。そして恐る恐る、のぞき穴から見てみました。
久しぶりの再会
するとそこには顔色が悪い、うつろな目をした女性がいました。
余りにも青ざめていたので、一瞬その女性が誰かわかりませんでした。しかし、すぐに彼女であることがわかりました(彼女との話はこちら)。
会計士受験生だった彼女は、音信不通であることを心配して、勉強の合間を縫って、実家まで様子を見に来てくれたのです。
急いでドアを開け、顔を合わせると、その場にへたり込んで泣き崩れてしまったのです。
対人恐怖症が重症化し、引きこもりとなってからというもの、試験勉強を続ける彼女とは必然的に会う機会が激減していました。
特にその日は、彼女からメールや電話をもらっても、2週間以上返信していませんでした。自分自身、生きるか死ぬかで全く余裕がなかったですし、会計士を目指して勉強する彼女に、引け目を感じていたからです。
そっと抱きしめる
私は泣き崩れる彼女に
「ど、どうしたの・・・」
と告げましたが、彼女は泣き崩れるばかりで何も話せない状態になっていました。
私はその姿を眺め、この瞬間、彼女にも心配をかけていたことを理解しました。彼女は彼女で不安だったと思います。会計士試験に落ちて、一緒に勉強していた唯一の仲間が脱落し、完全に孤独な生活を送っていたのです。
孤独な生活の過酷さは十分理解していたはずなのに、私は自分のことで精いっぱいで彼女の痛みに気が付いていませんでした。おろかな私は、彼女の痛みを理解し、そっと肩を抱きしめ、
「わ、わざわざ来てくれて、あ、ありがとう・・・」
と伝えました。彼女の肩を触ると、ブルブルと震えていました。その震えから、彼女の寂しさや、つらさ、苦しさが伝わってきました。
少し落ち着いたころに、私は彼女の肩を支え、家の中へ招き入れました。彼女は泣きじゃくりながら、家に入り、その後もじばらくは憔悴しきっていました。
まずはソファーに座ってもらい、お茶を出しました。家に来た人にお茶を出すというのは、自分の中では新鮮な行為でした。
お茶を出しても彼女はすぐに飲むことはできませんでしたが、時間が経つと1口、2口と飲んでくれました。
彼女への感謝
彼女だんだんと落ち着きを取り戻し、少しだけ私に対して、寂しかった心内をぶつけると、そこからはゆっくり話ができる状態になりました。
その後は、お互いの近況を伝え、久しぶりの再会を喜ぶこともできました。彼女が帰るころには笑顔が見れるようになっていました。
心配し続けてくれた彼女には、本当に感謝しています。
試験のためのノートを取ってくれたり、出席簿に代返をしてくれたこともありました。私が大学を卒業できたのも、彼女のお陰でした。
引きこもりとなって、やけくそになって、言葉遣いが荒くなっていた時期も、我慢して私との関係を続けてくれました。
後日談となりますが、結果的に起業をする直前の24歳ぐらいまで彼女とは付き合いました。
彼女も持ち前の継続力が実を結び、24歳で会計士試験に合格しました。今でも監査法人で活躍していると思います。
最終的には振られてしまうことになるのですが、迷惑をかけたのに恩返しができなかったことが悔やまれます。
働きたい・・という意欲
彼女の会計士試験が一段落すると(この年は彼女は不合格でした)、私も心が回復しつつあったので、会う機会を増やすことができました。
引きこもりと、会計士受験浪人生という、カップルでお金がなかったので、せいぜい公園を散歩したりと言ったデートでしたが、大きな心の支えになりました。
そして幾ばくかの温かい関係を体験すると、私の中で
「働きたい」
という気持ちが出てくるようになりました。
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・川島達史 1981年生まれ
・社交不安症専門カウンセラー
・公認心理師 精神保健福祉士
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